第1話はこちら

初めての活動以降は、月に1度くらいの頻度で体育館を借りては、ひたすら紅白戦を行っていたのだが、徐々に綻びが見え始めていた。
そして、結成から半年が経ったある日、それが形となって現れた。

楽しく出来ればいいのに、文句を言われてまでバスケがやりたいとは思えない。

池ちゃんがそう言った。

原因は、経験者である増田が、紅白戦を重ねる度に初心者への要求が強くなっていったことだった。本人に悪気はないのだが、どうしてもゲーム中は熱くなってしまう性格だった。自分と平田はその性格を知っていたし、経験者である宏嗣や和也には何も言わない。初心者のメンバーから見ると、それはもう面白くなかったと思う。

これはいかんと、池ちゃんの気持ちをひと通り聴いてすぐに増田へ注意を促した。
本人は二つ返事で分かったと言ってくれたものの、ひと時でも池ちゃんがそのような気持ちになってしまったということは事実。増田はそういう性格だからと割り切っていたが、自分以外への配慮が足りなかったと猛省した。

この件が落ち着いてからは、少しずつ紅白戦以外の練習メニューも増えていき、レベルが低いなりにチームらしくなってきた。

しかし、チームの綻びの全ては解決されていなかった。

後日、次は毎熊からこんな申し出があった。

バスケには参加したいのだが、お金が無いからバスケに行けない。

当時使用していた体育館の料金は1時間210円。交通費にはそれぞれ住んでいる地域によって差があったものの、毎熊よりも遠くから参加してくれている参加者も居た。何より、毎熊の意思に反していることに納得がいかなかった。
毎熊には、バスケを5回するために遊びを1度我慢すれば問題ない、という主旨の話や、お金の面はみんなで工面することを伝えて説得をしたが、叶わなかった。

チーム初の脱退。体育レベルの紅白戦だけをするチームが何を大袈裟な。と思われるかもしれないが、自分にとっては大きな損失だった。

残念な気持ちを抱えていたところ、更に追い討ちをかける出来事が起こる。

その日の夜、平田・増田・真也・遼の4人でメールのやり取りをしていたのだが、真也が送ってきたメールには添付画像付きでこう記されていた。

毎熊、好き放題言いよる。

添付画像を開いてみると、毎熊が某SNSに自分の悪口を書き連ねていた。

「自分が正しいと思っていることを押し付ける人、ほんとに無理。暑苦しい。見ていてイライラします。」

言葉が出なかった。

自分が全て正しかったとは思っていない。チームに残ってほしい気持ちを全面に出してしまったことは認めるが、バスケがしたくても出来ないということで毎熊の気持ちを聴いていたので、決してバスケを強要をしたつもりはなかった。
好き放題書かれていたことはとても悲しかったけれど、怒りはなかった。これを見た遼が、許せないと毎熊にすぐ連絡を取ってくれたおかげもあったかもしれない。
次の日、学校で毎熊が謝りに来てくれたが、話せるような心持ちではなかったため、自分はいいから平田たちに謝ってくれとしか言えなかった。自分は謝ってほしかったわけではなく、バスケ以外に時間を使いたいのであれば、嘘を言わずにそう言ってほしかっただけだった。何を言われても気にしない性格だと思っていたが、実際にSNSを通じて書かれていたと思うとかなり辛かった。

その日以降、毎熊がバスケに来ることも無く、高校卒業までほとんど会話もしなかった。あの時の自分の行動の、何が正しくて何が間違っていたのか、分からないまま高校生活を終えた。

社会人になってから数年、自分は転職をすることになるのだが、その転職先にはなんと毎熊が居た。高校生ぶりの再会となった2人で、早々に飲みに行くことになった。

あの頃は本当にごめん。

お互いにそう言ったと思う。
毎熊は、SNSを通じて悪口を書いたこと。そして自分は、正論を振りかざして毎熊を追い込んでしまったこと。

あの一件が起こった後、サッカー日本代表の長谷部誠選手が書いた「心を整える。」という本を読んだ。長谷部選手がキャプテンを務めていた高校時代のエピソードで、「自分が正しいと思ったことを仲間に厳しく指摘し、衝突することがあった。その頃の自分は、正論を振りかざしていた」というような話が描かれていたと記憶している。
当時の自分と長谷部選手を重ねてと言うと甚だおこがましいのだが、そのエピソードを知ったとき、毎熊にもう少し違う言い方が出来なかったものかと考えさせられた。

読者の方がもし、毎熊が悪者に映ってしまっていたら誤解しないでほしい。間違いなく、毎熊と同じだけ自分にも非があった。毎熊は、自分を許してくれてありがとうと言ってくれたけれど、こちらこそありがとう。人の意見に噛みついてばかりだった自分が、他人の意見に耳を傾けるようになった。そうさせてくれた大きな要因が、この毎熊との衝突だったことを忘れないでほしい。

長野、ほんと丸くなったよねえ。

最近の毎熊は事あるごとにそう言ってくれるが、今だから言わせてほしい。

ほんと、お前のおかげだわ。


続く

第3話はこちら

ちょーの

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2件のコメント

  1. […] これは、自分が所属するバスケットボールチームの、発足から現在までのおよそ8年間の記録。誰の目に留まるかも分からないこの空間で、ひとつずつ、少しずつ綴っていきたいと思います。真面目でつまらない記事になるかもしれませんが、どうかこの記録に目を通された皆様、長い目で見守っていただけると幸いです。俺らでバスケチーム作ろうよ!思いつきで言ったこの一言から、すべてが始まった。2011年、当時高校2年生だった自分は、友達の平田(あそふくのひらた)・増田とよく遊んでいた。高校生のときに遊ぶとなると、誰かの家でゲームをするか、カラオケに行くことが多かったのだが、経験年数は違ったものの、3人は偶然にも中学校でバスケ部に所属していたこともあり、ふとした拍子に公園でバスケをすることになった。久しぶりに楽しんだバスケ。3人でひたすら1on1で汗を流して、自分の中で燻っていた何かが弾けた気がした。帰宅部だっていいじゃないか。仲良しの友達とずっとバスケができたらいいのに。人が集まる確証も、チームを発足させる大変さも、何ひとつ分からなかったけれど、気付いたらチームを作ろうと言葉に発していた。あまり鮮明には覚えていないものの、平田と増田はかなり驚いていたと思う。2人は少し考えた後いいね!チーム作ろう!そう言ってくれた。もちろん、2人もチームを作ることについての一切のノウハウはなかった。何より、自分たちよりバスケが上手い連中は全員がバスケ部に入っている。だからといって、自分たちの周りにいるバスケの経験者など、ほとんどいないのだ。まさにゼロからのスタートだった。とは言うものの、カッコつけて形から入りたかった3人は、まずチーム名とキャプテンを決めることになった。チーム名は、ない頭を絞って考えた結果、3人の名前の頭文字を取り、「HYT」(ハイト)と名付けた。いま振り返ると、何とも恥ずかしいような、むずがゆいような、複雑な気持ちになる。次に、キャプテンは1on1で勝った人にしようという話になった。早速その場で1on1をし、僅差で平田が勝ってキャプテンもあっさりと決まった。バスケをするための場所とメンバーの確保は後日ということで、その日はここまでで解散することに。家に帰って色々と調べてみると、長崎市の公共の体育館を利用するためには、スポーツ振興課の「公共施設予約システム」の利用者登録をする必要があることが分かった。高校生が発行できたかどうかは覚えていないが、役所の受付は平日。テストの時期であれば午後から時間を確保できたものの、5月ということもありそんな時間は確保できなかった。泣く泣く母に頼み、仕事の合間に利用者登録をしてもらった。そして後日、学校帰りに平田と増田にその旨を伝えて、次にメンバーを確保しようと話をしているとキャプテンはやっぱちょーのやな。平田が不意にそう言った。これに増田も同調し、2人がいいなら…ということで、なんと結成3日でキャプテンが交替するという事態となった。正直、いま考えるとこれで良かったのだろうと思う。後に書き記していきたいと思っているが、当時は高校生だったものの、俗に言う「社会人バスケチーム」のキャプテンという立場は、誰よりも孤独なものだったからだ。さて、話はメンバー確保の話題に戻る。前述の通り、周りのバスケ経験者は自分たちだけ。はじめは、体育の授業くらいでいい。そんな思いから、仲良くしてくれていた友達に声をかけていくと、快く「バスケしたい!」と言ってくれる友達が意外にも多かった。中には、自分たちが仲が良いからと、少し強引に誘った友達もいたと思う。このとき集まってくれたのが、毎熊・真也・池ちゃん・遼。既に自分たちを合わせると7人も集まってくれたのだが、1学年下の弟がクラスメイトに声をかけてくれたらしく、バスケ部を退部した宏嗣・和也が来てくれることになった。この2人は、後にこのチームに欠かせない主力として頭角を現していくことになる。初めての活動場所は、長崎市南部にある三和体育館。開始時刻の少し前に集まった同級生の面々は全員がバスケ初心者だったのだが、遠いところよく参加してくれたと思う。チームが発足しても、人が集まらないことには活動はできない。仲良くしてくれていたとはいえ、当時のことを振り返るたびに、彼らには本当に感謝が尽きない。程なくして、弟の同級生である宏嗣・和也がおそるおそる体育館へ入ってきた。このとき初めて2人と対面したのだが、宏嗣の身長の高さと和也のボールハンドリングに驚いたことを鮮明に覚えている。先輩ばかりの集団に入ってくるのは大変だったと思う。礼儀正しくクールに振舞う2人に、その日はしきりに声をかけてあげるよう心掛けたが、2人には少々鬱陶しい先輩に映ったかもしれない。時間が許す限り紅白戦をして汗を流したが、初心者と、初心者に毛が生えた程度の自分。正直、平田・増田・宏嗣・和也の4人には物足りないレベルだったと思う。逆に、初心者のみんなから見た経験者の姿は、とても眩しく映っていたのではないだろうか。ともあれ、自分の中では、みんなで楽しく汗を流して、チームとして活動を始められたことに大きな意味があった。次の日は激しい筋肉痛に見舞われたものの、とても心地のいい痛みだった。上々の滑り出しを切ったように見えたHYTであったが、早々に初めての壁にぶつかることになる。続く第2話はこちら […]

  2. […] 第2話はこちら毎熊の一件があった後、なるべくみんなの意見を汲んであげようと心がけた。それぞれの予定がある時は無理を言わず、その代わりにメンバー以外のバスケ好きに声をかけ、助っ人を増やした。はじめは初心者だったメンバーも、活動を通してそれぞれの得意分野を見つけては武器にしていった。チームとして個々人がスキルアップしていく様を見ていると、まるで「実写版ロールプレイングゲーム」が目の前で展開されていくようで、練習を重ねるたびにワクワクが止まらなかった。対外試合を行ったことのないこのチームをロールプレイングゲームの主人公に例えると、この主人公の成長の中にジャイアントキリングは一切ない。言うなれば、生まれ育った村の周りをぐるぐると徘徊しては、目の前に飛び出してくるスライムをひたすら倒しては村へ帰るだけなのだ。傍から見れば、完全に井の中のなんとやら。これがなかなかどうして面白い。「初心者だらけのチーム」が、活動を通じて「バスケ好きが集まるチーム」に変わっていくと、3年生になる頃には、なんとバスケ部を引退した友達まで参加してくれるようになった。正直に言うと、バスケ部といえば、このチームのレベルの低さに物足りなさを感じてしまうのではないかと考えていたのだが、そんなことはなかった。同じ目線で一緒にバスケをしてくれるし、経験が浅いメンバーには点を取らせようとボールを回してくれたりもした。自分の中での偏見や食わず嫌いが、このチームの可能性を無意識に狭めていた。この性格が、人生でどれほど勿体ないものなのかと痛感させられた出来事であった。高校を卒業する頃には、20人以上も人が集まってくれたこともあった。その日は高校受験の日で教室が使えないため、休校日。自宅学習という休みだったにも関わらず、こんな大人数でバスケをした次の日、噂を聞き付けた先生方から「自宅学習の日に外に出てなんばしよっとや」と注意を受けたが、言葉とは相対して笑顔だった。気付けば、活動を始めておよそ2年が経っていた。紆余曲折あったものの、バスケットボールを通じてここまで広がったコミュニティを初めて認めてもらえた気がして、自然と頬が緩んだ。その2ヶ月後、卒業式を終えて迎えた3月2日。自分たちの世代が高校生としての最後の活動には、これまで参加してきてくれた友達が何人も集まってくれた。しかし、チームの中にはこの活動を最後に県外へ旅立ってしまうメンバーもいた。バスケが終わってその日をお開きにする前に、自分と平田、そして増田の3人で県外へ旅立つメンバーそれぞれに宛てた色紙をプレゼントした時、涙を流しながら「ありがとう」と言ってくれたメンバーを見て、本当にチームを立ち上げて良かったと、心から思わせてくれた。この後、それぞれが進学や就職をすることで多忙になり、HYTとしての活動は少しずつ、そして確実に減少の一途を辿った。いま振り返っても仕方の無いことだと思うが、その年のゴールデンウィークを境に、チームの活動は完全に止まったのであった。続くPS.この物語を書き始めた時は、不定期での更新になるかと思っていましたが、書き始めたら止まらないという現象に陥っています。笑もし他の話題を読みたいという方がいらっしゃったら申し訳ないのですが、もう暫くこのチームの歴史に付き合っていただけると幸いです。 […]

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