第2話はこちら
毎熊の一件があった後、なるべくみんなの意見を汲んであげようと心がけた。それぞれの予定がある時は無理を言わず、その代わりにメンバー以外のバスケ好きに声をかけ、助っ人を増やした。
はじめは初心者だったメンバーも、活動を通してそれぞれの得意分野を見つけては武器にしていった。チームとして個々人がスキルアップしていく様を見ていると、まるで「実写版ロールプレイングゲーム」が目の前で展開されていくようで、練習を重ねるたびにワクワクが止まらなかった。
対外試合を行ったことのないこのチームをロールプレイングゲームの主人公に例えると、この主人公の成長の中にジャイアントキリングは一切ない。言うなれば、生まれ育った村の周りをぐるぐると徘徊しては、目の前に飛び出してくるスライムをひたすら倒しては村へ帰るだけなのだ。傍から見れば、完全に井の中のなんとやら。これがなかなかどうして面白い。
「初心者だらけのチーム」が、活動を通じて「バスケ好きが集まるチーム」に変わっていくと、3年生になる頃には、なんとバスケ部を引退した友達まで参加してくれるようになった。正直に言うと、バスケ部といえば、このチームのレベルの低さに物足りなさを感じてしまうのではないかと考えていたのだが、そんなことはなかった。同じ目線で一緒にバスケをしてくれるし、経験が浅いメンバーには点を取らせようとボールを回してくれたりもした。
自分の中での偏見や食わず嫌いが、このチームの可能性を無意識に狭めていた。この性格が、人生でどれほど勿体ないものなのかと痛感させられた出来事であった。
高校を卒業する頃には、20人以上も人が集まってくれたこともあった。その日は高校受験の日で教室が使えないため、休校日。自宅学習という休みだったにも関わらず、こんな大人数でバスケをした次の日、噂を聞き付けた先生方から「自宅学習の日に外に出てなんばしよっとや」と注意を受けたが、言葉とは相対して笑顔だった。
気付けば、活動を始めておよそ2年が経っていた。紆余曲折あったものの、バスケットボールを通じてここまで広がったコミュニティを初めて認めてもらえた気がして、自然と頬が緩んだ。
その2ヶ月後、卒業式を終えて迎えた3月2日。
自分たちの世代が高校生としての最後の活動には、これまで参加してきてくれた友達が何人も集まってくれた。しかし、チームの中にはこの活動を最後に県外へ旅立ってしまうメンバーもいた。バスケが終わってその日をお開きにする前に、自分と平田、そして増田の3人で県外へ旅立つメンバーそれぞれに宛てた色紙をプレゼントした時、涙を流しながら「ありがとう」と言ってくれたメンバーを見て、本当にチームを立ち上げて良かったと、心から思わせてくれた。
この後、それぞれが進学や就職をすることで多忙になり、HYTとしての活動は少しずつ、そして確実に減少の一途を辿った。いま振り返っても仕方の無いことだと思うが、その年のゴールデンウィークを境に、チームの活動は完全に止まったのであった。
続く
第4話はこちら
PS.
この物語を書き始めた時は、不定期での更新になるかと思っていましたが、書き始めたら止まらないという現象に陥っています。笑
もし他の話題を読みたいという方がいらっしゃったら申し訳ないのですが、もう暫くこのチームの歴史に付き合っていただけると幸いです。
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2件のコメント
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[…] 第1話はこちら初めての活動以降は、月に1度くらいの頻度で体育館を借りては、ひたすら紅白戦を行っていたのだが、徐々に綻びが見え始めていた。そして、結成から半年が経ったある日、それが形となって現れた。楽しく出来ればいいのに、文句を言われてまでバスケがやりたいとは思えない。池ちゃんがそう言った。原因は、経験者である増田が、紅白戦を重ねる度に初心者への要求が強くなっていったことだった。本人に悪気はないのだが、どうしてもゲーム中は熱くなってしまう性格だった。自分と平田はその性格を知っていたし、経験者である宏嗣や和也には何も言わない。初心者のメンバーから見ると、それはもう面白くなかったと思う。これはいかんと、池ちゃんの気持ちをひと通り聴いてすぐに増田へ注意を促した。本人は二つ返事で分かったと言ってくれたものの、ひと時でも池ちゃんがそのような気持ちになってしまったということは事実。増田はそういう性格だからと割り切っていたが、自分以外への配慮が足りなかったと猛省した。この件が落ち着いてからは、少しずつ紅白戦以外の練習メニューも増えていき、レベルが低いなりにチームらしくなってきた。しかし、チームの綻びの全ては解決されていなかった。後日、次は毎熊からこんな申し出があった。バスケには参加したいのだが、お金が無いからバスケに行けない。当時使用していた体育館の料金は1時間210円。交通費にはそれぞれ住んでいる地域によって差があったものの、毎熊よりも遠くから参加してくれている参加者も居た。何より、毎熊の意思に反していることに納得がいかなかった。毎熊には、バスケを5回するために遊びを1度我慢すれば問題ない、という主旨の話や、お金の面はみんなで工面することを伝えて説得をしたが、叶わなかった。チーム初の脱退。体育レベルの紅白戦だけをするチームが何を大袈裟な。と思われるかもしれないが、自分にとっては大きな損失だった。残念な気持ちを抱えていたところ、更に追い討ちをかける出来事が起こる。その日の夜、平田・増田・真也・遼の4人でメールのやり取りをしていたのだが、真也が送ってきたメールには添付画像付きでこう記されていた。毎熊、好き放題言いよる。添付画像を開いてみると、毎熊が某SNSに自分の悪口を書き連ねていた。「自分が正しいと思っていることを押し付ける人、ほんとに無理。暑苦しい。見ていてイライラします。」言葉が出なかった。自分が全て正しかったとは思っていない。チームに残ってほしい気持ちを全面に出してしまったことは認めるが、バスケがしたくても出来ないということで毎熊の気持ちを聴いていたので、決してバスケを強要をしたつもりはなかった。好き放題書かれていたことはとても悲しかったけれど、怒りはなかった。これを見た遼が、許せないと毎熊にすぐ連絡を取ってくれたおかげもあったかもしれない。次の日、学校で毎熊が謝りに来てくれたが、話せるような心持ちではなかったため、自分はいいから平田たちに謝ってくれとしか言えなかった。自分は謝ってほしかったわけではなく、バスケ以外に時間を使いたいのであれば、嘘を言わずにそう言ってほしかっただけだった。何を言われても気にしない性格だと思っていたが、実際にSNSを通じて書かれていたと思うとかなり辛かった。その日以降、毎熊がバスケに来ることも無く、高校卒業までほとんど会話もしなかった。あの時の自分の行動の、何が正しくて何が間違っていたのか、分からないまま高校生活を終えた。社会人になってから数年、自分は転職をすることになるのだが、その転職先にはなんと毎熊が居た。高校生ぶりの再会となった2人で、早々に飲みに行くことになった。あの頃は本当にごめん。お互いにそう言ったと思う。毎熊は、SNSを通じて悪口を書いたこと。そして自分は、正論を振りかざして毎熊を追い込んでしまったこと。あの一件が起こった後、サッカー日本代表の長谷部誠選手が書いた「心を整える。」という本を読んだ。長谷部選手がキャプテンを務めていた高校時代のエピソードで、「自分が正しいと思ったことを仲間に厳しく指摘し、衝突することがあった。その頃の自分は、正論を振りかざしていた」というような話が描かれていたと記憶している。当時の自分と長谷部選手を重ねてと言うと甚だおこがましいのだが、そのエピソードを知ったとき、毎熊にもう少し違う言い方が出来なかったものかと考えさせられた。読者の方がもし、毎熊が悪者に映ってしまっていたら誤解しないでほしい。間違いなく、毎熊と同じだけ自分にも非があった。毎熊は、自分を許してくれてありがとうと言ってくれたけれど、こちらこそありがとう。人の意見に噛みついてばかりだった自分が、他人の意見に耳を傾けるようになった。そうさせてくれた大きな要因が、この毎熊との衝突だったことを忘れないでほしい。長野、ほんと丸くなったよねえ。最近の毎熊は事あるごとにそう言ってくれるが、今だから言わせてほしい。ほんと、お前のおかげだわ。続く第3話はこちら […]
[…] 第3話はこちら2013年10月。HYTの活動が休止してから約半年の月日が経過していた。それぞれが新しい環境にも慣れてきたところで、久しぶりに体育館を借りてバスケをしようという話になった。とは言っても、HYTで活動していたメンバーのうち数人は県外に行ってしまっている。そのため、チームのメンバーではなかったものの、度々参加してくれていた上野を中心に、高校時代に仲の良かった友達も募ってバスケをすることになった。平田とは、社会人になってからも変わらずよく遊んでいたものの、他は久しぶりに再会する友達ばかり。体育館に足を踏み入れると、そこには懐かしい面々が居た。高校生の頃のように、軽くアップをしてからすぐに紅白戦を始めた。社会人になってからというもの、ひたすらデスクワークに勤しんでいた自分の体は鉛のように重かったけれど、気持ちだけは爽快だった。やっぱりいつになってもバスケがしたいな。素直にそう思った。嬉しいことに、この気持ちを感じていたのは自分だけではなかったようで、それから毎週のように体育館を借りてはバスケをした。気付けば、高校生の頃に夢見ていた「社会人バスケ」の試合に出たいと思うようになっていた。しかし、当時自分が知っていた長崎の社会人バスケというと、どれもトーナメント制の大会であったため、今のチームの実力を考えるとリーグ戦で戦えないものかと悩んだ。逸る気持ちを抑えきれず、スマートフォンとにらめっこしていると、あるサイトが目に留まった。長崎フープリーグトーナメントではなく、リーグ戦を戦える環境がそこにはあった。サイトを読み進めていくと、なんとその年に発足したばかりのリーグで、来シーズンの参加チームを募集していた。これだ!と思い、すぐにメンバーの数人に話をした。そして、活動再開から3週が経った日の練習後、上野と、上野の友達という立場で参加してくれていた敦志の3人で、チームの今後について話すためにファミレスへ行った。当時のメンバーは、自分たちの年代である19歳が大半を占めており、次点で1つ下の高校3年生のメンバーで主に構成されていた。そのため、リーグに参加のお願いをする以前に、ユニフォームをどうしようかという話で集まったのだ。これについては比較的シンプルに纏まり、社会人である自分たちが高校生のユニフォーム代を半額支払ってあげることで負担を減らしてあげようということになった。後に、高校生だったメンバーはこのチームの主力として君臨することになる。そんな彼らを「今ならユニフォーム代50%オフ!」のセールで丸め込んだと考えれば、安い投資である。こんな言い方をするのはいかがなものかと思うが、それほどまでに彼らの活躍にこれまで何度も助けられてきた。次に話題に上がったのは、チーム名。HYTというチーム名にもすっかり馴染み、高校生の頃には勢いでチームのTシャツまで作ってしまったのだが、「この機会にもっとイカしたチーム名にしよう!」と3人で張り切って考え始めた。数時間もの時間をかけても決まらなかったと思う。22時ごろから少しの食事とドリンクバーで食いつないできたものの、考えれば考えるほど思考は止まり、追い討ちをかけるように疲れや眠気も襲ってきたタイミングで、誰かがボソッと呟いた。「Planet…」「いいやん!」さて、何が良いのか。直訳で「惑星」。冷静に考えるとさっぱり分からない。あの頃、あの瞬間の3人は横文字なら何でも良かったのだろうか。つい数分前までは、あれやこれやとそれぞれの口から出る名前を却下していたのだから、そんなことはないはずだ。しかし、タイミングとは一期一会なのだろう。おそらく、あのタイミングで出た単語が「Planet」ではなく「peanut」だったら、間違いなくうちのチームは「ピーナッツ」になっていたと思う。なぜか誰一人異論を唱えることもなく、こうしてチームの改名が決まった。ちなみに、HYTの創設メンバーは自分・平田・増田の3人で、この時Planetとして活動再開のメインとなったのは自分・上野・敦志の3人。どちらのチーム名を決める時にもその場に居たのは自分ただ1人なのだが、おそらくチーム名に最も拘りがないのが自分なのだろう。誤解しないでいただきたいのは、どちらのチーム名にも同じくらいの愛着があるということ。個人的には、大切なのはチーム名じゃなくて「居心地」だと思う。それから程なくして、リーグに対し参加希望の連絡を入れた。HYT結成から2年半。活動再開から間もなく、チームは変革期を迎えていた。続く […]