“ 病気と仲よくなりたい ”
とは、誰もおもわないだろう。
僕はよくストレス性胃腸炎だったり、痛みや熱がでたりと、よく体調不良になることがある。
そのときいつも決まって、
“(自分が就労しているデイサービスの)利用者さんはこれ以上の苦しみと毎日つきあっていて、表にはださないけど、本当にたいへんなんだろうなぁ”
と、脳裏によぎる。
かならずよぎる。
“ 病気と仲よくなりたいとは誰もおもわないだろう ”
と前述したが、
そうならざるをえない場面もある。
結論からいうと、
“ 病気への理解 ”
というのは、
“ 感謝のきもち ”
とおなじくらい、相手の心をみたすことのできるツールなのではないか。
ほとんどの病気には、それに罹患(病気になること)しやすい年齢、いわゆる “ 好発年齢 ” というものがある。
たとえば骨粗しょう症やパーキンソン病は50歳以上、アルツハイマー認知症は70歳以上、というもの(あくまで統計学的な話)。
なぜ “ 病 ” というものに好発年齢というものがあるのか、それは神のみぞ知るところだが、ほんとうにものすごく、雑に振りきれた話、子どものころに骨粗しょう症やパーキンソン病に罹患したことがある人は、大人になったら高齢者の心にもっと寄りそえれるのかもしれない。
しかしまるで逆説的に、この世はそうではないようにできている。
その病気に罹患しないと絶対に、その真髄はわからないのかもしれないのに。
これはおそらく「介護」の問題点の根幹だ。
高齢者に寄りそうプロセスには、自分なりにその人と「同化する」努力が必要不可欠となる。
たとえば脳卒中の人がいて、手足のしびれを訴えていたとする。
その最大限のイメージを自分の身体におとしこんで模倣して立ったり、歩いてみたりする、ということ。
そして同化をするなら、病への理解が必要だ。
しかし介護や福祉の現場において、お風呂、食事、排泄、買い物、などとつねに目まぐるしく稼働しているさまは、患者さんの “ 身体的なサポート” に比重がかたよるときがあり、 “ 精神的なサポート ” が分かっていても後手になるときがある。
ここが介護・福祉における、最大の問題点のひとつだとおもう。
これは決して、本当に決して誰もわるくない。
おそらくシステムがわるいのだ。
たとえばすべての資格取得時に、ペーパーテストや実技試験のみならず、病について学び、それを患者として模倣する “ ロールプレイテスト ” を導入するのは、ひとつの解決策としては良いのではないだろうか。
相手のもともとの性格や、生活歴を把握したうえで
“ 〇〇さんがいまこういう様子なのは、□□ という病気の、△△という症状がでてるからなのかな? ”
という、理解のもとの予測ができると、尋常じゃない心の余裕がうまれるのではないだろうか。
利用者さんも、そういうところを察知することになれば、安心して自身の介護や介助を相手にたくせるのではないか。
もちろんなにが正解なんて、わからない。
誰よりもいちばん未熟な僕が、いちばん頑張らないといけないが、
それが僕なりの “ 寄りそい ” の理想形だ。
病気とは、仲よくならざるをえないときがある。
しかしその経験、思案をずっともったまま患者の方々と接していくといつか、
まるで昔から気心しれた旧知の友人どうしのような、
フレンドシップ(友情)のような、
そういうものがたくさん生まれてくるのではないか。
それはきっと、最高の理想形だ。
ライター/竹口耕輔